ハイデガーと「出来事」(Ereignis)

ハイデガーと「出来事」(Ereignis)

最後に、第四政治理論の最も深遠な-存在論的な-基礎を確認することができる!- 第4の政治理論にとっての最も深遠な-存在論的な-基礎を確認することができる。ここでは、神学や神話だけでなく、根源的存在論–存在についての最も包括的で、逆説的で、深遠で、突き抜けた研究–を構築するというユニークな試みを行った、ある特定の思想家の反省的な哲学的経験にも注目すべきである。マルティン・ハイデガーのことである。

ハイデガーの概念を簡単に説明すると、哲学思想の黎明期に、人々(より具体的にはヨーロッパ人、さらに具体的にはギリシア人)は「存在」の問題を思考の焦点として掲げた。しかし、「存在」を主要な主題とすることで、「存在」と思考との間の複雑な関係、純粋な「存在」(Seyn)と存在におけるその表現である「存在」(Seiende)との間の関係、「世界における存在」(Dasein)という人間の経験と「自己における存在」(Sein)との間の関係のニュアンスによって混乱する危険性があった。この失敗は、フーシス[37]とロゴス[38]についてのヘラクレイトス[36]の教えにおいてすでに生じていた。次に、パルメニデス[39]の仕事において、そして最後に、人間と存在の間にイデアを置き、それらに対応するものとして真理を定義したプラトンにおいて、知識の参照論が失敗のうちにその頂点に達したことは明らかだ。これが疎外感を生み、やがて「計算する思考」(das rechnende Denken)、そしてテクノロジーの発展へとつながっていく。人間は少しずつ純粋な存在を見失い、ニヒリズムの道を追求するようになった。テクノロジーの本質(テクノロジーと世界の関係に基づく)は、この増え続けるニヒリズムを表現している。新時代において、この傾向は頂点に達する–技術的発展(Ge-stell)[40]は最終的に「存在」を置き去りにし、「無」を戴冠する。ハイデガーはリベラリズムを「西洋的ニヒリズム」の核心にある「打算的思考の根源」の表現とみなして痛烈に嫌っていた。

ハイデガーがその完全な姿を見ることができなかったポストモダンは、あらゆる意味で存在の究極的な忘却であり、あらゆる亀裂から無(ニヒリズム)が染み出し始める「真夜中」である。彼は、無そのものが純粋な存在の裏返しであると信じていた!- そのような逆説的な方法で!)人類にその存在を思い起こさせる。存在の展開の背後にある論理を正しく読み解くならば、思考する人類は、その最大の危機の瞬間に、電光石火の速さで自らを救うことができる。ハイデガーはフリードリヒ・ヘルダーリンの詩を引用している。

ハイデガーはこの存在の突然の回帰を表現するために、Ereignis(「出来事」)という特別な言葉を使った。それはまさに世界の真夜中、つまり歴史上最も暗い瞬間に起こる。ハイデガー自身、この時点に達したのか、それとも「まだ」なのか、常に揺れ動いていた。永遠の「まだ」…。

ハイデガーの哲学は、再考された第二、第三の政治理論から神学や神話の復活に至るまで、すべてを自分の周りに通す中心軸であることが証明されるかもしれない。

第四政治理論の中心には、その磁気的な中心として、近づいてくるEreignis(「出来事」)の軌跡がある。Ereignisは、人類が存在についてきっぱりと忘れ去り、その最後の痕跡が消え去るまさにその瞬間に、存在の勝利の帰還を体現するものである。