将軍の時代

将軍の時代

鎌倉幕府

後鳥羽上皇(1180-1239)は1198年まで在位し、19歳で退位を余儀なくされました。後鳥羽上皇治世初期の実権は、祖父の後白河法皇(1127-1192)に握られていましたが、後白河法皇が崩御した当時、後鳥羽上皇はまだ12歳であり単独での統治は不可能でした。特に平安時代に力を持ち、皇室の若手分家や日本の最高貴族のメンバーで構成された源氏がこの状況を利用しました。同じように高貴な出自を持ち、支配者であった天皇とのつながりを持つ他の3つの強力な一族は、平氏(源氏の主な対立者でありライバル)、藤原氏(この頃には権力は過去のものとなっていた)、そして橘氏でした。

源氏の当主、源頼朝(1147〜1199)は、幼い天皇を退位させすべての実権を将軍、すなわち天皇の地位も、神聖なる神性も、神道の神官としての役割も持たない最高の世俗的支配者の手に渡すという新しい政治モデルを確立し、それまでの日本には無い権力体制が生まれ、令外官の官職名で征夷大将軍または唐名で幕府と呼ばれ、形式的には天皇の称号は維持され、皇室の継承は依然として尊重されましたが、天皇の手にはもはや実権は無く、都は中枢である幕府と将軍の所在地に移され、天皇の所在地である旧都京都は、神聖で宗教的な都としての地位を与えられました。

日本の伝統という文脈において、幕府というシステムの導入はクーデターと見なすことができます。日本文明の構造全体を根本的に変え、天皇の神聖で宗教的な地位は、神聖な力の本質の表現としての有効な力と融合しました。将軍と天皇の機能の分離は、神道の世界観における重大な分裂を意味し、大乗仏教、特に真言宗や天台宗は、これまで見てきたように、中国の大乗(華厳の華厳、天台の華厳、真言の金剛界を含む)と日本独自の神道の皇室の神聖な伝統との間の普遍的な統合に引き寄せられたと言えます。

1221年、隠遁していた後鳥羽上皇は、美濃源氏に反対する多くの武家の支援を得て、実権を天皇の手に戻そうとしましたが、これに対し他の武家は幕府を支持しました。このエピソードは日本史の中で「承久の乱」と呼ばれています。後鳥羽上皇の試みは、それまで比較的周辺的な現象であった平安時代に発展した武士が、新しい状況下において日本の主要かつ決定的な勢力の一つになったことを明確に示したと言えます。そのため、幕府の全期間は一般に「武士の時代」と呼ばれています。しかし実際には将軍は武士とは言えず(逆に、最高貴族から遠く離れた一族の代表)、皇室のエリートや皇室の若い分家出身者で構成され、後鳥羽上皇による権力回復の試みは失敗に終わり、最終的には源氏と幕府の勝利に終わりました。その後、後鳥羽上皇は隠岐に流され、そこで亡くなりました。

鎌倉幕府の将軍と共に、承久の乱の後には将軍の下に執権という役職が登場しました。執権とは以前の天皇を中心とした二重の権力構造を再現するものです。鎌倉幕府初代将軍源頼朝のもと、京都を襲撃した幕府軍のリーダー北条時政(1138-1215)は隠遁していた天皇の支持者を破りました。この北条氏は有力な平氏に属しており、その後北条家は(ひいては平氏)将軍家を支配下に置き、この一族から出た執権が将軍家の少数勢力を支配し、更にその後自由に将軍家を継承しました。平安時代後期の上級貴族による天皇への摂政という図式とまったく同じで、今度は武士である北条氏による将軍への支配と言えます。北条氏は1199年から1333年まで執権を務め、鎌倉時代末期までに権力が集中し、更に数代後に北条氏は源氏を倒して藤原氏の一族を将軍に据え、依然として実権を北条氏が握っていました。源氏と藤原氏の代表は、実質的には平氏に取って代わられ、平氏の優位性をみとめざるをえませんでした。

幕府の急進的な改革によって、武家支配の時代と呼ばれます。武士は将軍と執権の両方が頼りにしていた社会集団でしたが、天皇の権力は名目上維持され、京都の天皇は日本の歴史の以前の時代、特に平安時代に定められた王朝の規則と神道の要件に従って互いに継承され、執権の北条氏は武家とされていました。

幕府時代の地政学的課題はほとんど変わりません。日本の地方を中央政府に従属させること、完全に日本社会に溶け込むことを拒むアイヌや他の部族を征服すること(彼らの勢力圏は絶えず縮小して行きます)、朝鮮との同盟関係を発展させ、中国との文化的交流を行うことです。この伝統的な諸課題の中で新しいのは、フビライ・ハンのモンゴルによる中国征服とモンゴル元王朝の建国です。中国を完全に征服したモンゴル軍は東進を続け、幕府が伝統的に同盟関係を結んできた朝鮮を脅かしました。モンゴルの脅威とフビライ・ハンの日本侵略計画を知った幕府は防衛の準備を始め、1274年と1281年の二度にわたるフビライ軍の日本上陸と征服の試みを見事に撃退しました。モンゴル軍は武士たちの激しい抵抗に直面し、同時に艦隊が二度にもわたって台風の暴風圏に立たされた上にかなりの数のモンゴル軍の船が破壊され、日本人は完全に、日本を守るサムライ軍の隊列の中には神々やエレメント、つまり彼らの親族が共に戦っていると確信し、そこから「神風」という名称が生まれました。これは文字通り「神々の風」という意味で、フビライ軍の侵攻を撃退したことは祖国への武功であり、効率的で勇気と力のある模範であり、「良いサムライ」が真似るべきものと考えられたのです。

モンゴルの脅威は幕府を守勢に立たせ、対外的な接触(中国を含む)を減らし、一定の閉鎖性をもたらしました。

神道の仏教解釈:渡来(わたらい)神道と吉田神道

鎌倉幕府の末期において、宗教的な領域で興味深い現象が見られました。神道家が、神道(天台宗と真言宗)に向かって歩み寄る仏教宗派との形而上学的な対話に参加するようになったのです。この相互的な関係の最も初期の例の一つが、伊勢神宮の外宮の神官たちによる渡来神道の理論の発展です。この理論の基礎を築いたのは、神道家の渡来雪忠(1236〜1305)です。

幕府の時代になると、日本人のアイデンティティーの問題が新たな次元で提起され、渡来神道は、日本が神国(神の国)であることの根拠について独自の見解を提示しました。天皇の求めに応じて、渡来雪忠は『伊勢二瀬皇大神宮神名秘抄』を編纂しました。この神道のバージョンは、伊勢の外宮の神官によって崇められる女神トウケが、内宮で崇められるアマテラスに劣らず重要であるという考えに基づいています。トウケの真の姿は、天と地が分かれた後に最初に現れた神である天之御中主命と同一視されているのです。

このような変容と同一化は、「矢の不可逆性」すなわち一度放たれた矢が戻ることなく直進するという神道の本質と深く対立していました。そのため、伊勢の外宮に祀られていた食物の女神トウケの新しい地位を正当化するには、全く異なる種類の形而上学に訴える必要がありました。ここで、「内部仏教」として知られる空海や最澄の仏教的思想が、仏教と神道の対応関係を確立しようとする中で、巨大な解釈の可能性を開いたのです。神道の枠組みでは証明できなかったことが、仏教の概念、特に般若(女性の存在に広く適用される)や天の中心を象徴するタントラの毘盧遮那仏に訴えることで、理論的に可能になったのです。

この時、渡来神道の支持者たちは、神道の神々の地位に関する極めて具体的で狭い問題を解決するために、仏や菩薩を日本固有の神々の同義語として考えることを提案しました。こうして、新たな歴史の節目において、日本と日本人(神国)の神性を正当化するという天皇(および一部将軍)の課題が解決されたのです。

神道の光学における仏教の解釈は、後に神道の僧侶である占部吉田兼朝(1415〜1511)によって引き継がれました。吉田兼朝は、これらの教えの記述は元祖とされる天児屋根命から自分の家系に伝えられ、天児屋根命は北斗七星の神から受け取ったものであると主張しました。彼は、神道には原初の神である太元帥神(別称:国常立尊またはアメノミナカヌシ)を崇敬する特別な形而上学的次元が存在すると提唱したのです。

両部神道や山王神道では、仏教徒が日本のカミを仏と見なし、カミを内なる本質(すなわち本来の仏)の外面的な表現として認識していました。これに対して、兼朝の説は「神本仏迹」と呼ばれ、この同一性を逆の視点から主張しました。「神本仏釈」は文字通り「神-起源、仏-顕現」を意味し、ここでは本質が神であり、顕現が仏です。神道の最高神である太元帥神は至高の神であり至高の本質であり、至高の仏陀はその最も完全で完璧な顕現として現れました。

吉田兼朝の教えは「吉田神道」、または「唯一神道」として知られるようになりました。1485年、吉田兼朝は将軍と天皇の支持を得て、日本の3132柱の神々を祀る特別な神社である大元宮を建立しました。この神社は日本の総鎮守であると宣言されました。また、亘理神道の総本山である伊勢の秘宮に保管されていた天照大神と豊受大神の「神体」が奇跡的に発見された事により、吉田兼朝は「神道頭職」と宣言され、彼の子孫はこの称号の世襲保持者となり、この称号は17世紀末から江戸時代の最初の数十年間まで将軍と天皇によって認められました。

鎌倉時代末期、蓄積された問題が北条氏の権力を弱体化させ、他の武家の反発を招きました。鎌倉幕府への反発が高まったのは、嫡流の第96代後醍醐天皇(1288〜1339)でした。後醍醐天皇を支持する武士たちが蜂起し、最初の攻撃は将軍に忠誠を誓った武将、足利尊氏(1305〜1358)によって鎮圧されましたが、後に足利尊氏は京都を襲撃するよりも天皇側に寝返りました。新田義貞(1301〜1338)は2度目の挑戦で鎌倉を占領し、幕府の第一期が終わりました。執権3人を含む870人の北条氏一門の武士が、菩提寺である唐招提寺で切腹しました。

正統な天皇による統一的で中央集権的な支配は長く続かず、わずか3年しか続きませんでした。後醍醐天皇が公家の復権を図ると(建武の改革)、ほとんどの武家が反発し、再び内紛の舞台となりました。1336年、鎌倉幕府打倒の歴史の鍵を握る武将、足利尊氏が再び権力を掌握し、武家を頼り、京都から吉野(奈良に近い)に移った後醍醐天皇とその後継者たちが正統と認めない多くの王朝人物(光厳、小梅など)を配下に指名しました。こうして北朝と南朝の二重の権力が形成されました。北朝は、足利と足利の周りに集まった武士たちの完全な支配下に置かれました。二つの朝廷と二つの政党が対立した結果、日本の統一は揺らぎ、地方の諸侯と主要な武家は急激に強化され、日本は摂関政治を経験しました。この時代は、足利家が幕府の中枢を置いた京都の通りの名前にちなんで室町時代と呼ばれ、1336年から1573年まで日本の政治において支配的な地位を維持しました。

1392年、南朝の後亀山天皇(1347〜1424)が北朝の後小松天皇(1377〜1433)に象徴的な神器を譲渡し、両朝は統一されました。しかし、この統一は北朝の主導下で行われ、北朝は足利将軍家の支配下にありました。本来の北朝と南朝の朝貢交替の取り決めに反し、後小松天皇の退位後、15世紀後半から足利将軍家の支配力は次第に衰退し、国権の分散化が進みました。国内は統治不能となり、それぞれの地方は武家によって支配され、しばしば他の武家と争うようになりました。

ちょうどこの時期、吉田兼朝が創始した吉田神道が台頭しました。

16世紀に入ると、織田信長(1534〜1582)が敵対勢力を次々と打ち破り、1568 年には廃位された最後の将軍足利義昭(1537〜1597)と同盟を結び、京都を制圧しました。信長は日本の統一を目指し、多くの武士や民衆を引きつけましたが、1582年に本能寺で家臣の明智光秀(1528〜1582)によって裏切られ、切腹を余儀なくされました。

信長の死後、彼の後を継いだ豊臣秀吉(1537〜1598)が日本の統一をさらに進め、朝鮮への遠征を行いましたが、彼の死後、徳川家康により江戸幕府が開かれ、安土桃山時代が終わりました。

 

翻訳:林田一博

 

①. 日本の構造

②.  神道:中国文化の質的変容

③. 日本歴史の各時代

④.  奈良の六派:仏教とディオニュソスの痕跡