「第四政治理論を日本人が理解する為に必要な事」

私たち日本人は、敗戦と共に多くのことを忘れてしまいました。時代の経過とともに色褪せていく思想もありますが、忘れてはならないものも数多く存在します。それを探し出すために、鉱山で働く鉱夫のように地上と地下を往復し、地下の坑道奥深くでダイヤの原石を探すような作業が必要です。これは私のような労働者の役割です。

日本人がアレクサンドル・ドゥーギン教授の「第四政治理論」の重要性を深く理解するためには、まず重要な先人たちの思想を理解する必要があります。ここで、一人の日本人を紹介します。

「石原莞爾の思想と影響」

石原莞爾(いしはら かんじ、1889年 - 1949年)は、旧帝国陸軍軍人であり、満州事変の首謀者の一人として知られています。彼は独自の戦略思想を持ち、「世界最終戦論」を提唱しました。この理論は最終的に東アジアが世界の中心となり、平和が実現するというもので、石原はその異彩を放つ思想と行動で、戦間期の日本軍に大きな影響を与えましたが、その強硬な軍事行動と戦争推進の姿勢は後に議論の対象となりました。かつては、日本陸軍の要職にあったにもかかわらず戦争責任を問われることがありませんでした。しかし敗戦という結果の後では、彼の戦時中に於ける軍事行動や思想も再評価されず、その独自の戦略理論は時代の流れに埋もれていったのです。戦後、彼は政治や軍事に対する影響力を持つことなく、1949年にこの世を去りました。

彼の才能のうち、取り上げられるべきものは思想と戦略であり、彼の著書「世界最終戦論」「戦争論大綱」の中にあるものだと言えます。これは石原がアジア主義の観点を持っていた為、この時代の中では彼が飛び抜けた先見性を持っていた事を示しています。

西洋文明との前哨戦と「戦争論大綱」の限界

石原莞爾の「戦争論大綱」は主に日本とアジアの局地的関係性に限定されているとはいえ、西洋列強に対抗するためのアジアの連携と独立を目指すというビジョンが描かれていました。しかし、彼の理論は先進的であったが為に、西洋的思想の土台を用いて西洋に対抗せざるを得ず、実際に日本軍が解放したとされる地域が植民地化してしまうという矛盾を解決する事が出来なかったと言えます。また、アジアの伝統的価値観と道徳に重きを置いていますが、具体的な宗教の役割や多様な価値観の包含については明確なビジョンが欠けており、これが多様な課題に対して十分な対応ができない一因となりました 。石原の理論は、20世紀初頭の文脈に根ざしたものであり、現代の多極的な世界情勢には適応する事は出来ません。しかし、この理論は日本人にとって一つの方向性を示す道標であると言え、他には無いアイディアである事は間違いないと思います。

現代に於いて、そして敗戦によって「戦争論大綱」の輝きは失われました。それは優れたアイディアでした。しかし、哲学の土壌に植えられた種でなければ良い木に育つ事はないと言えます。ダリア・ドゥギナは-「戦争という現象」形而上学・存在論・境界-と言う著書作の中で、「戦争という現象」形而上学・存在論・境界-の中で、「πόλεμοςは、プラトンによれば、非常に過酷で勇敢なやり方で行わなければならないのです。」と言っています。日本は「πόλεμος」を明確に理解していなかったため、戦いの本質を知らないまま開戦し、敗戦した為に全てを失いました。

今や日本は植民地化され、今や当時のようなビジョンを持つ事ができません。

「戦う英雄の姿」

アレクサンドル・ドゥーギン博士の「第四政治理論」は、伝統的価値観や宗教、共同体の重要性を強調しつつも、物質主義や個人主義の弊害を克服することを目指し、これにより、現代社会が直面する多様な問題に対処するための柔軟性と深みを提供します。ロシアを中心とするユーラシア主義を提唱しユーラシア大陸の統合を目指す上で、多極世界の中での平和共存は必須であり、軍事力の使用は国家の独立と主権を守るための手段としています 。

これらの事から、「第四政治理論」は、その独自性と現代性、包括的な価値観、そしてグローバルな地政学的視点において、石原莞爾の「戦争論大綱」を超える優れた理論であると言えます。アレクサンドル・ドゥーギン博士の理論は、現代社会が直面する複雑な問題に対応するための新しい枠組みを提供し、多様な価値観を包含することで、より広範な支持を得ることが可能です。

そして、これらの堅牢な基礎の上に今のロシアは立っています。
そして西洋文明との最前線に於いて不屈の英雄として戦っているのです。

「志士達よ、私達の祖国は亡国の危機に瀕しています。今こそ伝統的価値観の旗の元に集まろう。」